八幡平を知る 暮らし

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暮らし

自然と寄り添い、四季とともに暮らす

歴史や気候風土からその土地の食文化が見えてくるという。
自然の循環を活かした作物栽培、冬を生き抜くための保存食。
伝統の食文化がいまも大切にされている。

鉱山が残したもの
―松尾鉱山―

八幡平市柏台と八幡平山頂をつなぐ八幡平アスピーテライン沿いに建つ「旧松尾鉱山アパート群」。 八幡平市柏台と八幡平山頂をつなぐ八幡平
アスピーテライン沿いに建つ「旧松尾鉱山アパート群」。

 盛岡市から八幡平市を経て秋田県大館市へいたる鹿角街道。藩政時代には、塩や穀物をはじめ、金や銅などを運ぶ道として、大きな役割を果たしていた。街道沿いには宿場町が点在し、多くの人が行き交い、生活をしていたという。そして、時が下り、明治から昭和にかけて、「東洋一の硫黄鉱山」といわれた「松尾鉱山」が隆盛を誇った。
 八幡平市の暮らしを語る上で松尾鉱山は外せない。一時期、硫黄の国内総生産量の3分の1を誇り、標高約900メートルの場所に鉱山町を形成し、従業員4000人、家族を合わせると約1万5000人が暮らしていたという。住宅はもちろん、学校から病院、店、劇場までそろい、「雲上の楽園」と呼ばれた。 松尾鉱山は昭和49年に閉山。現在は、八幡平市柏台から八幡平山頂へ向かう八幡平アスピーテライン沿いにある「旧松尾鉱山アパート群」が残るのみである。
 この鉱山で働く男たちに愛されていたのが、八幡平では知らない人はいない酒蔵「わしの尾」の清酒「金印」だ。また、当時は自分で漬物や味噌をつくる家も多かったこともあり、「麹屋もとみや」の麹は行商の人によって松尾鉱山へと運ばれていたという。

八幡平で大切に育てられている馬たち 八幡平で大切に育てられている馬たち

草原を走る馬
―馬文化―

 グリーンシーズンになると、八幡平市安比高原で馬の放牧が行われる。意外と知られていないことだが、八幡平市安代一帯は馬産地で、20年ほど前までは、このような風景が見られたそうだ。農耕馬として、山で切り出した木々を運ぶため、荷物を運ぶ手段として馬が飼育されていた。安比高原の「前のまきば」「中のまきば」「奥のまきば」は、牧野として開拓され、現在の芝草原の生態系ができたと想像される。
 馬の放牧することで、山やまきばの自然が保たれるという。馬が下草や笹、すすきを食べ、排出したバフンが大地の栄養となり草木を育てる。そして、育った草木は再び馬の餌となる。
 八幡平市荒屋新町の「羽沢製菓」の羽沢憲英さんは、「先代も馬を飼っていました。うちの南部せんべいに『馬印一番』と記されているのも、その時の名残りです」と話す。また、「ジオファーム八幡平」でも、馬と馬堆肥を活用した循環型農業を目指している。

冬の保存食として
―発酵文化―

味噌は古来より、保存のきく調味料として重宝されている。熟成することで、味に深みも出てくる。 味噌は古来より、保存のきく調味料として重宝されている。
熟成することで、味に深みも出てくる。

 10月下旬、岩手山に初冠雪が見られると、足早に冬がやってくる。
 雪深く氷点下10度を下回る日が多い八幡平市では、秋の実りを保存し、冬に食べるための知恵として生まれた保存食が多い。漬物、野菜やキノコの寒干し、凍み豆腐など……。麹を使った発酵食品もある。
 八幡平市で麹を使用する発酵文化が根付いたのは、農業が盛んな土地柄、各家庭で味噌を仕込んだり、漬物を漬けたりするなど、麹を使用する機会が多かったからと考えられる。
 「麹屋もとみや」の本宮隆一さんによると、「昔は地域ごとに麹屋があった」と話す。流通が発達し、食材の保存技術の発達により、麹屋は減少していったという。しかし、八幡平に麹屋が残っているのは、麹づくりに適した冷涼な気候風土があるからだ。
 麹の力で大豆や米は、味噌や日本酒となる。細菌が繁殖しにくい冬になると、「麹屋もとみや」では寒造りの味噌が、「わしの尾」では日本酒の仕込みの最盛期となる。
 自然と人間の営みがつながることで文化が形成される。そこに、人が集まり、集落がつくられ、産業が発達していく。自然と人間が互いを活かしながら暮らしが、今も八幡平には息づいている。